昭和52年02月02日 朝の御理解
御理解 第94節
「信者に不同の扱いをすな。物を余計に持ってくると、それを大切にするようなことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ。」
真の信者を目指さなければなりません。この九十四節はやはり取次ぎの御用に従う者、いうならば先生に対する、取次ぎ者に対する御理解だと思うですね。沢山物を持ってくると又は地位やら名誉やらある人が参ってきたりすると、それを大事にすると取り扱うと言った様な事でしょうね。教祖様は時の岡山藩主の奥方ですかね、がご参拝になられるような時でも、やはり信者と同じの取次ぎ、お取り扱いなられたと言う事ですね。
ですけれどもそこは人間ですから、人情が出勝ちな事でございますけれども。まあここは御道の教師に対するご理解ですから、惟は私も含めてですけれども、信者としての立場は、どうあらなければならないか。真の信者じゃと仰る、その真の信者を目指す者の心掛けというものは、どうあらなければならないかと言う様な事を聞いて頂きたいと思います。昨日ここを下がったのがもう、五時近くでしたでしょうが、すぐお風呂を頂いた。そしたらすぐに久留米の近見市長がご参拝になっておられますとこう言う。
「ならちょっと応接間に待たせときなさい」と言うて、まあ慌てて上がろうとしながら、ふっと思ったんですけれども、あれがもし普通の誰々さんであったならば、「あぁ待たせときなさい」と言うて、慌てもせずにゆっくり入った事だろうと、はっはは相手が市長さんだもんだから、もう慌てて上がろうとしよる。この様な事がやはり本当の事じゃないんだなというふうに思うんですけれども、さあそこは人間ですからね。やっぱりそのそう言う風な人間心を遣う。
もう本当に御道の教師として取次ぎ者として恥じ入る事ですけれども、やはりそういう様な事がないじゃないのです。ほんならまあ私が、皆さんの場合であってもまあどんどん物を余計持ってきたり、お供えが出来たりする。ひょっとすると大事にしよるかも知れん。ですから例えばね私もその人間ですから、教祖様の様な訳にはいかん訳です。そこで皆さんがほんなら、毎日「あぁ先生が冷たく当たられた」とか又は「不同の扱いをされた」とか「こげん腹の立つことはなか」と言った様な事に。
直面されたときの、今日はお話を聞いて頂こうと思うのです。どうでしょうか皆さん、そんな事無かったでしょうか。いやそのたいてい、心掛けてはおります。けども私のその生き方は、すこうしばっかり、違うものですからね。例えばこの頃は、久富先生が午後の御用を一切して下さるし、夕食も一緒にお風呂も一緒になさります。それで夕食の時にご飯を頂くのですけれども、私はもうあの他の人になら、さあどうぞどうぞと言うて、「ま一杯ぐらい良いじゃないですか」ち言うて進めるけれども。
久富先生にゃ絶対進めない、隣同士おっ立っちゃ杯もささんです。他んもんにはみんな指すです。はっはは久保山先生がおられる時分に話したことでしたけれどもね、久保山先生にゃ、おビールを出すです。「久富先生、あんたんあすけ焼酎があったけん、焼酎で良かたい」ち言うて焼酎を出すです。本当にそれは不同の扱いですけれども、私の心の中には大体は。一律、同じの気持ちですけれども、果たしてそう言う所が、皆さんにお分かりになるかどうか。そんな場合があるです。
あの人にはビール飲ませてから、あれには焼酎どん飲ませてからと、あっははあの人には、杯ささっしゃったけれども、私にはとうとうさしもさらっしゃれじゃったと、と例えば、言うような時なんです。「信心の篤いのが真の信者じゃ」と、だから今日は真の信者を目指させて頂いておる、なら皆さんもちろん私も含めてですけれども、と言う様な場合に、どういうあり方であったら良いか。問題は私自身が、おかげを受けなければならんと言う事でございます。
今日、ある方の御祈念をさしてもらう中に、ある方の事をふっと思わせて頂いたら、絵に描いた富士山がね、まさし、富士山ですけれども、こんなふうな富士山を描いた。たかぁい。普通なだらにこう、あの裾を引いておるのが富士山ですけれども、それがねもうこう、直立しておられる不動さんの絵なんです。ああ不動さんじゃない、その富士山なのにね。まあ図案化した富士山には、そんなのが良くありますよね。こんなに高くこんなふうな感じです。ですからこれならとても登れませんですよね。
立ったような富士山。裾を引いて自然とこう段々、高くなっておるのですから、富士山でも山頂を極めようと思えば、極められるのであって。こういう富士山であったらもう極められませんよね。そして私が心の中にふっと思ったことは、ははあこの人は自分で信心を難しいものにしてしまっておるなあと思いました。本当いうならば寒修行というならば、昔は一番にお参りをして来よった方でしたけれども、今度はまあ何回か参ってきたでしょうか。寒修行にも参加出来ないと言う様な状態である。
信心はみやすいものじゃが、氏子から難しゅうすると教祖様が仰るが、これは私共が。登ろうと思えば。登れれるいわば富士山をです。私共が心から登れないものにしてしまっておる。とてもあげん高い所には登られんと、もう初めから諦める人もありますけれども、登ろうと思えば登られるのが、いわば富士山です。山頂を極める事が出来るでしょうが。けれども自分からそういう、登れない様な山にしてしまう。信心というものは、そんなに難しいものにしてしまうと言う事は、どう言う事であろうか。
信心というのは、昨夜のお説教の中にも申しましたように。とにかく有難うなって行くという事なのだ。有難うなって行くと言う事は。楽しゅうなると言う事にも通ずるのです。信心が楽しゅうなる有難うなる。昨日吉井の熊谷さんの、昨日お届けにあった、その事を皆さんに、ちょっと聞いて頂いたんですけれども、本当におかげの泉で、いわば治らん病人が助かったり。
遠方の人達が、おかげの泉を読みながら、どんどんおかげを頂いておられるという合楽のお話を、熊谷さんから借りたおかげの泉、五、六冊を繰り返し読ませて頂いて、人間不平不足の道は習わんでも、結構不平不足を言ってるけれども。喜びの道というものは、やはり、教えられなければ分からんのだと言う事を、このおかげの泉を読ませて頂いて、いよいよ感じましたという、その何回も、熊谷さんところにお礼に行かれたそうですけれども、何時も留守であった。
そこで昨日一昨日、電話が架かってきて、だから貴方のご都合の良か時、是非合楽にお導きを頂きたいという電話が架かってきた。その電話の中でです、実は恥ずかしい話ですけれども、私はしゅうと親を大事にしたことがございませんでした。本当に相すまんことだけども、家のしゅうと親は大事にしようと思うばってんされん。ところが最近そのお婆さんが入院をしておられる。
もうその方もだいぶん年配らしいですけれども、私はあのおかげの泉を読ませて頂いて、合楽の信心の根本は親孝行だと言う事を、諄々と説いておられる。それを読ませて頂きながら胸が熱うなった。こら本当に自分が悪かったと思うて、初めておばあちゃんのために牡丹餅を作りました。そして病院にそれを持って参らせて頂きましたら、お婆ちゃんが涙を流して喜んでくれた。私も涙が流れるほどに有難かった。確かに喜びの道というのは、教えてもらわなければ分からんというお電話でした。
もうそれこそ相当年でしょうから、何十年間しゅうと嫁後で過ごしてこられたのでしょうけれどもどげん思うても、お婆ちゃんを大事にする気になれなかったのだけれども、信心の根本は、親孝行にあるんだと聞かせて貰うて、しかも繰り返し読ませて頂いておると、それが懇々と成程信心するなら、こういうふうな在り方にならなきゃいけないと分かって、それこそここに嫁入ってきて、初めてお婆ちゃんのために牡丹餅を作ったというのです。本当におかげの泉の功徳ですよねえ。
ですからご本を読ませていただいても、このように有難い道が分かるのだから、実際、親先生という方にお目にかかって、教えを直接頂いたならば、どんなに有り難くなれるだろうかと言うのです。お婆ちゃんが涙を流して喜んだら、お婆ちゃんが喜ぶじゃないで、自分自身も涙がこぼれるほどに有難かったと。して見ると親孝行というものは、こんなに喜びを与えてくれるもんだ、喜びというものは、こんなにも有難いものだと言う事になってくる。楽しゅうなってくる。信心はそれです。
信心は本当にそれを行ずるところからです、楽しゅうなってくるです。有難うなって来るです。しかもそれが一段一段とです、いわば富士山の頂上を極めるようにです。段々五合から六合目、六合目から七合、八合と頂上を極めていく。これなら私も頂上を極めることが出来るぞという確信も生まれてまいります。此の方ばかりが生神ではない。みんなも、ここにお参りをしておる皆も、その通りのおかげが受けられるぞと教えられてある。その生神金光大神の境地を目指させて貰うて。
これは私の様な者でもこれを極めて行くならば、そこに到達することが出来るという確信を持っての信心になってまいりますとね、もう高められていくことが楽しゅうなってくる、有難うなって来るのです。それだけ今まで見えなかったところが見えて来る。視野が広うなってくる。心が広う豊かになってくる。と言う様な信心を、私は頂かなければ、いわば真の信心とも、また真の信者とも言えないと思うです。ほら朝参りも良かばってんがはあ眠かとか。
毎日参りゃお金も要るけんとかと、とても朝の眠たい位の事じゃない。お初穂やお賽銭位の事じゃない程しの、有難いものを身に付けていくと言う事が信心なのです。私はその事を今日頂いてどういう風にこの、いわば登れる山を登れんように自分がする。有難い信心を。自分で中途半端なものにしてしまう。こら昨日の朝の御理解の中に頂いておって、私そこを説くことを忘れておったんですけれども、例えば金光教の信心がです、どんなに素晴らしい合楽の信心が、どんなに有難いと言うてもです。
それはほんなら、素晴らしいという反物を見せて頂くのと同じで、それを断ったり、縫うたりは、自分がしなければいけないと言う事です。何十年信心しよら、生神様になれると言った様な事は絶対ないです。その生神になるなら、生神になるその道を辿らせて頂かなければ。頂上を目指すならば頂上を目指して、一歩づつでも登っていかなければ、頂上を極めると言う事は出来ません。その過程をです、ああせからしかとか。面倒くさいとか。お金が要るとか眠たいとか。
信心はもうそこから既に難しいものになってくるです。その事を私頂いてお願いさせてもらいりよりましたら、自然の対決において負けておる氏子という風に頂くんです。自然の対決、ここではいうなら全ての事柄に御事柄と、御事柄という御の字を付けて、それを一切神愛とも言うし。成り行きを大事に尊ぶとも言うけれども、その成り行きを尊びもせず大事にもせず、御事柄としても受けずにです。それをいい加減にして行く様にすると言う事が、いよいよいわば富士山を立直的立直した様な富士山にする。
いわば信心を難しいものにする。「いいやとても、私どんじゃ出来ん」とも、いよいよなってしまうわけです。成り行きを大事にする。御事柄として事柄に御の字をつけて、これを神愛として受けていくという生き方が、本当に身に付いてきたらです。なるほど御事柄だという、なるほど神愛だと言う事が分からせて貰うて、その事が起きて何かに直面したたんべんに、元気も出れば有難くもなってくる。いよいよ一段と登っていくことが楽しゅうなってくるのです。
それを自然の対決です、そういう対決の場でです。いつも負けてばっかりおるならばです。やはり信心は難しいもんだとして、いわばこんなに登れるところにも、登れないような自分で難しいものにして行くと言う事であります。だから結局「信心の篤いのが真の信者じゃ」というのは、ただ日参り夜参りしておるから、信心が手厚いのではなくて、神様の御働きそのものを大事に頂いていくという生き方の信心を進めると言う事が、信心が手厚いと言う事であり、またその有難さが喜ばしさがです。
様々な教えに則っていわゆる、基づいて信心が進められていくというおかげを頂いてまいりましたら、それが信心が篤いのであり、真の信者という事が言えるのじゃないでしょうか。そこでです、ほんならここでです、不同の扱いを受けたとする。先生が冷たく当たられたとするか。「憎まれ子、世にはばかる」と申します。それこそ今に見ておれというような気持ちじゃなくてです。
これは神様のご都合として、不同の扱いを受けても、冷たく当たられても。それを合掌して受けていくと言う様な生き方こそです。私は真の信心をさせて頂いておる者、信心を手あつうさせて頂いておる者、真の信心を目指しておる者の、それが姿だとこう思います。して見ると時には、たまには神様いや親先生が。冷淡に扱われたとか不同のもう、みすみす自分には焼酎どん飲ませちから、人にはビール飲ませとると、言った様な事もねあることも、実は有難い事ではないでしょうか。
今日は勿論この九十四節は、取次ぎ者に対する御理解だと思います。参ってくる信者と。信者に不動の扱いをするなと、のっけから仰っておられますから、そうだと思いますけれども、ほんなら私共が、ほんなら先生方というても人間ですから。先生からいうならば、不同の扱いを受けたときのあり方。いや不同の扱いだけではない、日常茶飯事の中に起きてくるところの、様々な問題を通してでもです。
その問題にいうならば、有難いという答えを出さずして、神様がこのようにして信心を鍛えて下さるというお礼を申し上げねばならないことをです。腹を立てたり神様に背を向けると言った様な事では、真の信者を目指しておる、信心の手厚いと言う事は言えないわけになります。今日は私はこの九十四節を、最後のところの。「信心の篤いのが真の信者じゃ」と、言っておられますその真の信者。
どういういわば、先生から不同の扱いを受けても、いや先生ではない自然が。天地の親神様が。信心せん者に、あんなに幸せにお金を儲けさせて、信心させて頂いておる者には、何時も貧乏させてと言った様な事は、ありましてもです。その向こうに御神慮の深さがあるのですから、その御神慮を、いよいよ分からせて貰うて、御神慮に添い奉る信心を目指す。そういう信者を、私は真の信心の手厚い信者じゃという風に思います。今日は信者の立場。で聞いて頂きました。
どうぞ。